昭和52年01月09日 朝の御理解
御理解 第6節
「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」
お道の信心を頂くというか、分かるというか、ここの所が十分わかった時に、初めてお道の信心が分かったという事が、言えるのじゃないでしょうか。何処におっても、それは汚い事をしておっても、やはり天地金乃神様のお懐の中であり、天地金乃神様のお広前であるという事ですだから、此処だけがお広前ではない。畑で例えば肥をかけておってもという事、汚い事を例えばしておっても、やはり天地の親神様のご恩恵の中に、又は天地金乃神様が見通し聞き通しの中にあっておることなんだ。
だから信心と言うのはね、そういう中にあっても、どこにあってもどこにおっても、神様有り難うございます、という心が頂けれるという事なんです。もう肥をかけよる時だけは、神様がもう臭いけんで避(よ)けてござる、ということは絶対ないという事。だからそういう信心を、私は日に日に新(さら)な信心、新なと言うんだと思います。三代金光様が日に日にが、日々が新ですと仰っておられる。もうこれは新な心でないと、神様のおかげをキャッチしきらんです。
自分の都合が良かったり、有り難かったりする時には、ああ神様勿体ないとこう言うとるけれど、また素晴らしい景色やら、所謂天然の美と言われます天然の美しさに見とれる様な時には、ああこれこそ神様だ、とこう合掌しよるけれども、それとは反対の汚い場面を見たり、自分に都合の悪い場にあっても、やっぱり天地の親神様のおかげの中に有るんだ、という事が分かるという事が信心です。それを目指す事です。それは日々が新な信心をしよらなければ、頂けない事だと私は思うです。
昨夜は新春パ-テイが、大変盛大に行われました。もう本当に賑やかに楽しくというだけではなくて、もう大変有り難いパ-テイでした。まあ信心させて頂く者の在り方は、まぁあれでなからなきゃあならないとこう思うんですけれども、私は「信心は日々が新」というのを引き当てました福引で。勿論これは神様が日々新であって呉れよと、新でなからなければ人が助からん。だから神様が私の心の中にいつも日々が新、もういつも心に神様が頂けておる様な、どういう場合であっても、日々が新な信心を神様が私に求めておられるという事、又は私が頂いておるという事。
その頂いておると言うても、それはもう限りのないこと、もっともっと深い広いものに育てていかなければならないという事。私の方の家内が頂いたのは。『芽が出りゃ摘まれ、葉が出りゃ刈られ、それでも茶の木に花が咲く。』何十年間、言うならば信心辛抱させて頂いておる内に、もうそれこそ芽が出りゃ刈られ、いや芽が出りゃ摘まれ、葉が出りゃ刈られと言う様な所を通ってもです、そこを信心辛抱し抜かせて頂く所にです、おかげの花が咲くです。その花が咲いた、そして実ったという時が、私はお徳だと思う、それまでが辛抱です。
あぁもうこがしこ信心しよるとにこんな事があって、こういう一生懸命お願いしとるのに反対な事になって、と言った様な事では、言わば信心にはならないし、同時に、今日皆さんに聞いて頂いとる、この御理解第六節、何処におっても、天地金乃神様のお広前の中にあるんだ、懐の中に有るんだと実感出来なければ、自分の都合の良い時だけは有り難い、都合の悪い時には、有り難くない事になって来る。神様の御懐の中にいつも有るんだと言う、ならそれは、どういう信心から生まれて来るかと言うと、只一生懸命参ったの理屈が分かったのだけではいかん。
もう日々が新であるという信心に、取り組まさせて頂かなければなりませんね。もう何時もの事ながら本当に、昨日皆さんがあの福引を頂かれる時に、皆さんが舞台の方に皆出て見えられました。一人一人頂かれる者と、顔とを見合わせてから、神様がもう的確なのに驚いてしもうた。繁雄さんの「私はこんげんとでした。」とちからそん前に見せなさったです。「どげんとを頂きなさったですか。」ち、言ったら[異体同心]と、書いてある。「もうこれだけで、いらんの。」と、言うたことでした。
異体、異なった体、けれども心は同じという意味です。勿論、これは神様と繁雄さんという事でもありましょうけれども、実は私と繁雄さんという事じゃないだろうかと、もう私のそばで御用して頂くならこの同心でなからなければ、言うなら痒か所に手が届く様なという御用は出来ませんですものね。日奈久の富永先生が「もうこれだけで良いです。」と、言うて前に私に見せて下さったものが[養素拝山]と頂かれた。養素、おかげの頂けれる元を、お徳の頂かれる元は拝山にありと言うのです。
拝山とは山を拝むと書いてある。やっぱり教会の教会長先生ともなると中々厳しい、信心はもうお参りがいよいよ徳を受けて人が助かる事の為には、もう山を拝んで行く以外にないぞ。山という事は厳しい修行という事です。どういう難儀な問題、どういう事柄があってもその事を拝んで行く以外ないぞ、それがいよいよ心を豊かにする要素にもなる、御徳を頂く元にもなるのぞ、と言うご理解なんです。郷之浦の末永先生は[一念一心大祓信行]でしたかね。
先生。一念、一念を貫くの一念、一念一心もう他には何も振り向くな、もう神様の前に無条件の御用を本気でさせて頂けよという事です。大祓い信行と言う事は、皆さんも御承知の様に、おかげば頂かんならんから大祓いを上げる、という意味じゃないでしょうが合楽の場合。大祓い信行というのはもう、お道の信心しとる者としては当然の事、当たり前の事、神様え御神撰を差し上げる様な積もりで大祓い信行しよる。それがもう一念一心で行けよ、という事だからこれは大祓いの事だけじゃない。
御用の全てが無条件で行けよという事、一心一念これで行けよ。これが末永先生が頂いとられる福引でした。正義先生の場合もそうだったでしょう[一心一念]だったですね。正義先生が、この寒修行が始まった時に「親先生、私が長年信心させて頂いとりますけれども、朝の御祈念にお参りを始めたのが丁度、去年の寒修行の初まりの時でした。そしておかげを頂いて、一年間無事に続かせて頂きました」と、こう言うのです。
一年間の間におかげでどういう事になって来たか、そりゃもう本当に見事な、此の頃からお話します様にね、もう金でいうならどれだけ掛かったか分からんという様な、言うならば檜造りの、言うならばお神様のお部屋が、八畳と十畳の間とそれに控えの間が出来て、もうそれこそもう本当に真・善・美輝く様な大きな住居に住んどられるけれども、わざわざ、わざわざと言うがそれが今度出来たんです。
神様がもう外は見られんですね。やっぱり一心を貫くという事ですよ、おかげが成就するという事は。貫こうとしよる所え又、中途半端な事になるから、おかげの方も中途半端になってしまう。これは末永先生の、言わば教会長である末永先生と、なら一般信者であるところの正義先生の場合は、そういう風に違いが有るですね。片一方のにはもう目を見張る様なおかげが伴うていっておる。
まあ昨日の例を、私が覚えとるだけでもお話をすると、それだけでも、今日はお話になる程しの、素晴らしい事ですけれどもです、どこにおってもどういう場合であっても、神様のおかげである、神様の懐の中で起きておるんだと、神様の懐の中だ。それは例え畑で肥を掛けておろうが、やはり神の広前だという、その実感が頂けるまでが信心です。自分の都合の良い美しい所だけが、神様の広前じゃない。汚い所も。自分の都合の良いことだけじゃあない。
昨日夕方、宮崎の黒木さんから電話が掛かってきた。今夜のパ-テイのために一同自動車一台に五名ですか、こちらえ向かって来とられます。向かって見える時にもお電話でお取次ぎを頂かれて、そして道までもどの道を辿らせて頂いたら良いだろうかと言うお伺いをしてから、みえよった。ところがその交通止めになっておって、これから先は通られんという所に行き当たった。それで只今からまた大回りをして参りますから、時間に遅れますけれども、と言うて、電話が掛かってきとりましたが。
丁度昨日、パ-テイが済んで、皆が立ち上った時分に一行皆見えられました。他の宮崎の方達はもう早く見えとられた。黒木さん達の一行だけが、そんな訳で遅れた訳です。ところが神様の御都合には、恐れ入ってしまうと思った事は、若先生が、宮崎から五名見えたけれどももう、福引が丁度それだけしか無かった様です。だからねその後から五名の方の場合には今から作らんならんから宜しくお願いします、と言うてお願いに来ました。あれだけ沢山の人がキッチリ福引があったという事です。
私は黒木さんからこう大回りをして来るから、というお電話を頂きましてすぐ神様にお届けをさして頂きましたら、『芥子蓮根』を頂きました。ねえ熊本の名物でしょう。芥子蓮根のこう切った奴です。お互いが如何にも信心が出来た様にあるけれど、例えば果して私の信心が日々新な信心が出来ておると思うておっても、神様の目からご覧になればまあ言うならばお粗末だらけの事じゃあないでしょうか。けれどもそれを一生懸命目指しとりますから、新な信心が出来たものとしておかげを下さってある。
それはどういう事かと言うと、神様が蓮根食うて下さりよる訳ですよね。皆の場合でもそうですよ。私はお参りが出来たけんでおかげ頂いた、なら正義先生の場合でもそうです。一年間言うなら寒修行からぶっ続けに朝参りが続いた、続いたからこういうおかげを頂いた、とまあいう訳ですけれどもです、神様の目からご覧になったらまだまだ目の粗い事でしょうけれども、神様がそういう殊勝な心掛けに、神様がもう出来とらんけれども出来たかの様にしておかげを下さる。
これは皆がそうだと。私は最近その事をお庇い、神様のお庇いの中にあっておかげを受けておるという事を、自分が信心が出来たからじゃない、神様のお庇いあっての事なんです。慢心なんか出そうにも、実を言うたら出せる段じゃない事なんです。所がその芥子蓮根が向こう先が見えんごとなる、中が詰まっとる芥子で一杯、という事はどういう事と思いますか。信心を段々させて頂いて、信心を例えば今日の御理解で申しますならば、何処におっても神様の御懐の中であると分からせて頂く程しの信心。
どういう事柄であっても、これは神様の神愛以外にはないと分からせて頂く信心。そこにはお礼を申し上げる以外には何もないという、そこ迄至った時にお道の信心が本当に分かったという事になるのです。お願いまでしとったごと、お伺いまでして来たのにどうしてこういう遠回りをせんならんごたる事になってきたじゃろうか。神様もあんまり当てにならん。そういう考えのことじゃない、右と願っても左、左と願っても右とそれが続くことすらがあります。
そういう中にあっても神愛に狂いはあるはずはない。神様にの働きに間違いはあるはずはない、と分からせて頂く所に信心の有り難さがあるのです。お願いをしておかげを頂いた。お願いをしてもお願いをしても、むしろ反対の方へなって行くといった様な場合であっても神愛です。二、三ヶ月前の富久信会の時に今日見えとられます日奈久の上野さんが発表しとられました。
最近なかなか不況で本当に何時お店が倒産するやら分からん様な感じですけれども、もうそれこそ一分一厘間違いのない神様の働きの中にあって起こって来ることですから、もし私が倒産したら私は必ず倒産祝いをするでしょうという発表をされました。お願いしとったばってん倒産した。そんなこっちゃないです。本当に例えば、その倒産したら倒産祝いでも出来る位の心の状態を開くことが信心なんです。
合楽に参りゃおかげを頂くおかげを頂くと言うて、只ならおかげばっかり続いたらどうなるか、自分の思う様にばっかりなったらどうなるか。思う様な事があったら思う様な事にならなかったり致しましても、そこを御神意、御神慮の深さを愈々分からせて貰うて、信心が言うなら、信心の稽古とはそういう事なんです。神様がそれこそ辛い涙がボロボロ流れる、芥子蓮根、蓮根食うて下さる様なおかげも下さるかと思うとです、それとは反対にそれこそ涙がでる様な反対の事になって来る様な事もあると言う事なんです。
けれどもそこにです、叩かれりゃ痛いけれども、痛いけれども有り難い。もう神様のお心が分かりゃ分かる程有り難いという事になって来た時に初めて、何処におっても神様の御懐の中にある自分である、ということが分かって来るとそれが段々出来る様になります。「段々信心に身が入ってくると神様のお試しが有りますぞ」と、御晩年の頃の教祖は、その事を参ってくる信者に一人一人にまあ仰せられたという事でございます。
信心に身が入ってくると、ああもう合楽通いはもう有り難か有り難か、もう宮崎からこの頃元旦祭には皆でお参りさせて頂いた、又今度は新春パ-テイにもおかげ頂いた。もう今度行く時には、親先生に車の事でん道の事でんお願いして行くけんもう大丈夫、という事ばかりではないという事が分かるですね。却って先生が言うた道を通らせて頂いた為に何時間も遅くなってしもうた、肝心要のパ-テイにもあう事も《間に合う事も》出来なかった、どうした事だろうか、という所には信心はないという事です。
おかげで信心の稽古をさして頂いて、有り難いという、本当の有り難いという心が出た時が本当なもんなんです。だから信心というのはもう実に楽しいと言うのは、どういう場合であっても有り難いという心が頂けれるという答えが出て来る、有り難いという答えが。だから楽しいのです、だから有り難いのです。美味しかもんばっかり食べよったっちゃ、もういっちょん美味しうなかごとなって来るでしょうが。
美味しかもんやら美味しくないもんやらも頂いていく内に美味しかもんは美味しかもんとしての味わいが分かってくる様なもんです。信心のお互いの目当てというものがです、只おかげが目当てだけになると、お参りしたばってんおかげ頂ききらじゃったと言うてそれでお終いになる。どんなに、それこそ葉が出りゃ刈られ芽が出りゃ摘まれてもです、そこを信心辛抱させて頂いとる内に、やがて茶の木に花が咲くという様なおかげが受けられるのです。しかもその花が実りともなりお徳ともなるというおかげを頂くのです。お徳を受けるというのですから。
そういう信心を通り抜けて初めて新な心という様な、日々が新という様な信心が出来るのはその先だと思うですね。どうぞ昨日のパ-テイの私の福引から二、三人の方のその中から、今日の御理解第六節を「畑で肥を掛けておっても道を歩いておっても、もうどこにおっても神様のお広前である」という事をです、今日はどういう事柄であっても神様の御働きである。どういう事があっておってもそこは神の懐なんだという事を、今日は聞いて頂ましたですね。
どうぞ。